風見鶏の独り言

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濃厚接触 男と女 性感染症 豊臣秀吉とその家臣の末路

コロナ禍の真っ最中です。濃厚接触者どうしで簡単に感染してしまいます。その数は多少は減ったとはいえ、新しいウイルスが発見され余談を許さない状況です。
 
いつになったら終息するのかわかりません。
 
接触といえば、もっと濃密な肉体的接触性感染症にかかる場合もあります。
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巷間つたえられるところによると、最近、梅毒が流行しているらしいです。
 
特に若い女性を中止にに多いらしいです。
 
性感染症のひとつに数えられていますが、原因は訪日外国人が急増したことや、これまでなら出会うことのない人との出会いを可能にするマッチングアプリが登場したためともいわれています。
 
お恥ずかしい話ですが、その昔、僕が二十歳になったばかりの頃、悪友と二人である地方都市の遊郭で遊んだことがあります。
 
しばらく日が経ってから、排尿時に痛みを感じるようになりました。一向に収まる気配がないので、医者に診てもらったところ、淋病だと告げられました。
 
時を同じくして一緒に遊んだ悪友も僕と同じ淋病に罹っていたのです。
 
幸いすぐになおりましたが、後でふたりは腹を抱えて大笑いしたことを今でもはっきり覚えています。
 
笑いごとですんだからよかったものの、もっと酷いもらいものだったら、笑い事ではすまないところでした。
 
梅毒は、昔から有名な性感染症(性病)のひとつです。梅毒トレポネーマという細菌に感染することが原因とされています。
 
梅毒は、性的な接触(他人の粘膜や皮膚と直接接触すること)などによってうつる感染症です。
 
原因は梅毒トレポネーマという病原菌で、病名は症状にみられる赤い発疹が楊梅(ヤマモモ)に似ていることに由来します。
 
感染すると全身に様々な症状が出ます。
 
 
症状が進むと皮膚や筋肉などに腫瘍ができる病気です。症状が進行すると、動脈瘤が出来て、それが破裂して命を落としたり、神経が冒されて錯乱状態になることが知られています。
 
あの徳川家康は相手を選ぶことで身を護っていたと言われています。
 
当時は「梅毒」が流行していたかららしいです。
 
そんな家康と対照だったのが豊臣秀吉です。
 
秀吉は裸一貫から成りあがって天下人になりますが、1598年に62歳で亡くなります。
 
死因についてはさまざまな説がありますが、そのひとつに梅毒があります。
 
ご存じのように秀吉は大変な女性好きだったと言われています。
秀吉の晩年は、衰弱が激しく、下痢や腹痛、食欲不振に数カ月でやせ衰えていたことがわかっています。
 
そのため、死因は大腸がんなどが考えられるのですが、そのひとつとして梅毒も挙げられているのです。
 
16世紀の終わり、秀吉による朝鮮出兵がきっかけとなって感染拡大が起きたと言われています。そのせいなのか、豊臣家に忠誠を誓った武将の多くは梅毒と思われる病気でなくなっています。
 
たとえば、加藤清正です。秀吉の子飼いの家臣で秀吉が亡くなった後に家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍として戦いその功績で肥後一国並びに豊後の国の一部を賜りました。
 
その清正は、家康と豊臣秀頼との間で行われた「二条城での会見」(1611年3月)を取り持つなど和解をあっせんしましたが、その3カ月後に亡くなりました。
 
死因は梅毒と言われています。清正と共に二条城での会見を取り持ったとされる、浅野幸長(よしなが)もその2年後に梅毒で命を落としたと言われています。
 
また、家康の実の息子ながら豊臣家の養子になり、両家の間を取り持つ立場にあった結城秀康も亡くなりました。
 
さらに、豊臣家が頼りとする大大名、前田利長も梅毒で死去したと言われています。
その結果、力を失った豊臣家に代わって家康は天下を取ることを決意したとも言われ、秀吉が亡くなって17年後の1615年に大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしてしまうのです。
もし、豊臣家に近い戦国武将の死因が梅毒であるのなら、豊臣家はある意味、梅毒という感染症により滅亡したと言えなくもないのです。
個人的にはコンドームをつけなくなったからだと考えています。エイズが話題になったときは、コンドームを装着することは性交渉の常識となっていましたが、エイズの話題が薄れるにつれてその常識が揺らいでいるように感じています。
     (尾上泰彦/プライベートケアクリニック東京院長、性感染症専門医)
 
けだし時代は移ろいでも、人間の三大欲望である、食欲、物欲、性欲はいつもついてまわるものです。欲望が無くなるときは死ぬときです。
 
老いてもなお、三大欲望を追求したいのが人間でしょう。生きている証拠でもあるのではないでしょうか。