両雄並び立つ 海援隊と三菱財閥 運命の出会い
龍馬のつくった「私設艦隊」がかの有名な海援隊です。
海援隊というのは、簡単に言えば「龍馬ら隊士たちは、平時は船団を率いて貿易業などをおこない、
船を提供したりするなどの便宜を図る」というものでした。
弥太郎は龍馬よりも1歳年上で、土佐藩で身分の低い地下浪人の家に生まれました。
弥太郎の岩崎家は、困窮のために武士の家格を売ってしまい、地下浪人になっていたのです。
しかし、地下浪人だった弥太郎は、やがて土佐藩の役人としての道が開かれたのです。
はじめは下横目という、もっとも下っ端の役人に取り立てられましたが、事務処理能力の高さからとんとん拍子に出世していきます。
慶応3年には、長崎の土佐商会の会計を任されるようになりました。
弥太郎がちょうど長崎に赴任したとき、龍馬の海援隊が当地で発足したのです。歴史のいたずらか。時の運か。
土佐商会の事実上の責任者は弥太郎だったので、必然的に海援隊の会計を取り仕切ることになったのです。
その給料を支払う役目を弥太郎が担っていたのです。
しかし、その100両を受け取った後、龍馬から弥太郎のもとに「俺の給料はどうした?」という使いがきました。
弥太郎は「海援隊士は全部で16人だから、100両で十分なはず。後藤もそれでいいと言った」と言い返しました。
これに対して龍馬は「隊長の給料は別だ」と言い返しました。
弥太郎は仕方がなく、自分からの餞別として、金50両を龍馬の元に持って行ったのです。
ふたりの交流はその頃からあったようです
後年、弥太郎のつくった「三菱」は、龍馬の発想を受け継いだ、と多くの歴史家から言われています。
三菱財閥の基礎を築いていったのです。
まさに龍馬がやろうとしていたこと、そのものだったのです。
弥太郎は、龍馬と酒を酌み交わすほどの関係だったからこそ、龍馬の発想を受け継ぐことができたと言えます。